[GAME] Subsistenceから見える、孤独な開発者の生き方

はじめに

Subsistence──その名前を聞くと、単に“生き延びる”という言葉だけじゃ足りない何かが胸の内に宿る。広大な荒野と森、小川のせせらぎ、吹き荒れる嵐の予兆──その中で、自分は一人、揺らぎながら日々を積み重ねていく。

木を伐り、石を砕き、畑を耕して食糧を確保する。
罠を仕掛けて獲物を狙い、眠らず見張りを立てる夜。
熊の遠吠えにビクビクしながら、自分の小屋が少しずつ形をなしていくのを、手を汚しながら見ている。

その世界では、資源は限られている。

体力・空腹・気温・疲労という見えないゲージが確実に減っていく。
一瞬の判断ミスが全体を壊すこともある。「あの時あの木を切らずに温存しておけば…」という後悔が、夜の焚き火の炎の中でくすぶる。

そして、ふと気づくのだ──これは、自分がブログを書き、コードを書き、「創作」している毎日と、本質的に同じ構造をもっている。

  • ブログの記事ネタも、Subsistenceの資源と同じように“拾っていく”ものだ。
  • コードのバグ修正も、夜の寒さや熊の接近と同じくらい予測不能で、対応次第でその後の展開が変わる。
  • 投稿ひとつひとつ、バージョン一回分のリリースも、薪を積み上げて焚き火を燃やし続けることと同じ。

創作も開発も、荒野でサバイバルゲームを通じて生まれる緊張感と同じ匂いがする。
「生き延びる」ことは、ただ物理的な状態を保つことだけではない。
アイデアを枯らさず、モチベーションを保ち、読者やユーザーとの繋がりを失わず、長く続けること──それ自体が、生き延びるということなのだ。

だから私は思う。
Subsistenceに没頭するその瞬間、ただゲームの中で生き延びているだけじゃない。
自分自身の創作と開発という“見えない荒野”を歩いている。
このゲームが、私に教えてくれるのは、生きることの本質のようなもの。

孤独の中で、続けるということの意味。

資源を集めること

Subsistence の世界では、資源を集めることが「生きることそのもの」に直結している。枝や鉱石を拾う──それはただの作業ではない。拠点を強化し、生存の可能性を保持するための土台であり、不安と希望とが入り混じった営みだ。

Subsistenceでの資源の種類と重み

ゲーム中で入手する資源はたくさんあって、それぞれ重さが違う。例えば:

  • 地上や岩の中から見つかる鉱石(銅・鉄・シリコン・錫・リチウム・黒曜石など)。これらは構造物の部材や武器・ツールの強化に必須。(subsistence.wiki)
  • 植物系の資源:木、繊維(fiber)、綿(cotton)、植物ハーブ、作物用の種など。食料と建材の両方の役割を持つもの。(subsistence.wiki)
  • 農業・ペット類:種を見つけてプラントベッドに植える、水と肥料を使って育てることで、食料の自給や畜産も可能。(subsistence.fandom.com)
  • 製錬(Refinement)プロセス:生鉱(raw ores)を製錬して使いやすくする(例:鉱石→金属フラグメント)作業が必要。(subsistence.wiki)

これらが集まらなければ、ツールも防具も作れず、拠点も強化できず、夜の寒さや熊の恐怖をしのぐ術がほぼ限られてしまう。

ブログ・開発での「資源拾い」に似たところ

このサバイバル要素が、lain さんのブログや開発の活動とめちゃくちゃ似てる。

Subsistenceでの資源拾い ブログ・開発での類似
小さな鉱石や繊維を探して、ちまちまと拾う 文献・情報ソース・技術的なヒント・コードスニペットをちまちまと集める
めんどくさい場所まで行ってレア鉱石を探す マイナーなドキュメント・英語の資料・古いフォーラムを掘る
必要な材料が足りず、進めない停滞期がある 書きたい記事のアイデアが出ない、バグが直せず前に進まない時期がある
資源状態によって拠点や防衛力に差が出る 知識・スキルの差がコードの質・記事の読みやすさに差を出す

なぜ「拾う」ことに時間を使ってしまうのか

この「資源収集フェーズ」が楽しいし、無意識に時間を消費するのには理由がある。

  • 小さな成功が見えるから。鉱石1つ拾えた → 次の日はもっと良い工具を使える → 拠点がちょっとステップアップする。
  • 安心感の積み重ね。資源が十分あれば「焦り」が減る。「これはいつでも修復できる」って思える。
  • 探索そのものが物語になる。「この場所で初めて見つけたレアな鉱石」「思いがけない洞窟」など、その経験が記憶として残る。
  • ゲームだと「拾って明日やることが増える」が明確だけど、ブログや開発でも「拾った情報を記事ネタに」「チップを蓄えて後で使う」ことで未来の創作が豊かになる。

資源を集めること

Subsistenceをやっていると、ただひたすらに「資源を拾う」時間が続く。 枝、石、繊維。目についたものを拾っても拾っても足りない。 銅鉱石や鉄鉱石はどこにでもあるわけじゃないし、綿や種子なんてほとんどレアドロップだ。 「今日こそ必要な鉱石を見つけなければ」という焦りに駆られながら、広いマップを歩き回ることになる。

でも、そうやって何時間も歩いた結果──結局何も見つからず、拠点に戻っても「ただ空腹が進んだだけ」という夜もある。 あの徒労感は、実は現実でブログや開発をしている時にも同じように訪れる。

情報を拾うというサバイバル

ブログを書く時、私はネタを探してネットの海をさまよう。 英語のドキュメント、古いフォーラム、Stack Overflowの回答、論文の断片…。 「これだ」と思った情報を拾っても、それが実際に記事やコードに役立つとは限らない。 リンク切れ、古い情報、再現性のないコード。 結局、何時間も調べた末に「これは使えない」とゴミ箱に投げるしかない時がある。

サバイバルで空っぽの洞窟を探索した時と、同じ虚しさだ。

成功する拾い方と、失敗する拾い方

  • ゲームでは「無計画に走り回る」よりも「どの時間帯に、どのエリアに行けば資源が湧くか」を知ることが大事。
  • 開発やブログも同じで、「キーワード検索を広げすぎない」「信頼できる一次情報を優先する」など、拾い方に戦略が要る。
  • 逆に戦略を間違えると、数時間経っても何も残らない。

私も実際に、夜中に海外のドキュメントを読み漁って気づけば朝、結局記事にできる材料が一つも残らず、ただ疲労だけが溜まっていたことが何度もある。 あれはSubsistenceで「食料も鉱石も拾えず、夜明けに凍える」感覚そのものだ。

拾うことに意味がある

それでも、資源を拾う時間は無駄ではない。 ゲームでは「次こそ見つける」という希望につながるし、拾ったわずかな繊維が未来の防具の一部になる。 ブログや開発でも同じだ。役に立たなかった資料も、断片的な記憶として残り、別の日に意外な形で再利用されることがある。

だから、私は資源を拾い続ける。 失敗の夜を知っていても、それを繰り返しても。 サバイバルも創作も、「拾わなければ始まらない」からだ。

拠点を築くこと

Subsistenceでは、拠点を持たない者は生き延びられない。 日が暮れれば、気温は一気に下がり、飢えと疲労が体力を削っていく。 野宿のまま朝を迎えるのはほぼ不可能で、火を起こすにも屋根がなければ雨風で消えてしまう。

だから最初の目標は「小屋を建てる」ことになる。 木材を集め、釘を探し、やっとの思いで壁を立て、ドアを付け、ベッドを置く。 そこに入った瞬間、画面のこちら側にまで伝わる安心感がある。 「帰れる場所ができた」という感覚は、ゲームなのに心に深く残る。

拠点と開発環境

ブログや開発も同じだ。 サーバーを立ち上げる、エディタを整える、Gitのリポジトリを用意する──これらは全部「小屋を建てる」ことと同じ。 整っていなければ、創作や実装に集中することはできない。 夜の寒さに震えながら作業するようなものだ。

「拠点を築く」とはつまり、安心して失敗できる場所をつくることだ。

  • 小屋があるから、熊に襲われてもやり直せる。
  • サーバーや開発環境があるから、バグっても再現して直せる。
  • そこがあるから、挑戦も実験も続けられる。

形だけの拠点、心の拠点

ただし、拠点をつくったからといって全てが解決するわけではない。 Subsistenceでも、壁だけで囲った拠点はハンターに簡単に突破されるし、資源が尽きれば意味をなさない。 開発でも同じで、ツールを導入しただけで安心してしまうと、本質の作業が進まない。

本当に意味のある拠点とは「帰れる場所」であると同時に、「次へ進む力を蓄えられる場所」だ。 小屋の中で火を囲んで休むとき、次の日の作業を考えられる。 環境が整ったエディタやブログの管理画面に向かうとき、安心してコードや文章に没頭できる。

生き延びるための基盤

拠点とは、「生き延びる基盤」であり「再び挑戦するための足場」だ。 これを築かない限り、資源をどれだけ拾っても意味がないし、明日の希望につながらない。

だから私は今日も、小屋を建てる。 サーバーを整える。 記事を書く場所を整備する。 安心できる拠点がある限り、孤独の中でも前へ進めるからだ。

日々のルーチン

Subsistenceを続けていると気づく。 「大きな冒険」よりも「毎日の繰り返し」が生き延びる鍵になる。

朝になったら木を伐り、罠を確認し、畑に水をやり、食料を確保する。 夜になれば焚き火を絶やさないように木材を足す。 これを怠った瞬間、餓死や寒さで一気に詰んでしまう。

サバイバルは「毎日の小さな作業をどれだけ継続できるか」で決まるのだ。

開発とブログのルーチン

開発やブログも同じだ。 華やかな新機能の実装や記事公開よりも、日々のルーチンこそが支えになっている。

  • Gitに小さなコミットを積み上げる
  • HugoやNetlifyの環境をこまめに更新する
  • 書きかけの記事の下書きを一段落だけでも追加する
  • バグ報告をメモに残す

これらは大したことがないように見えるけれど、怠ると「開発の焚き火」が消えてしまう。 再点火するには、倍以上のエネルギーが必要になる。

無駄に見えるけど欠かせない

ルーチンは退屈だ。 Subsistenceで毎日同じ木を伐っていると「またか」と思うし、開発で同じエラーを直すのはうんざりする。 けれど、その「またか」の積み重ねが、生存と継続を保証する。

ゲームでは薪を絶やさないことが生き延びる条件。 ブログや開発では、習慣を絶やさないことが続ける条件。

ルーチンが物語をつくる

不思議なことに、この地味なルーチンこそが、後で振り返った時に「物語」になっている。

  • 「あの時、毎日木を伐り続けて、やっと大きな小屋を完成させた」
  • 「あの頃、毎日記事を書き続けて、ようやくブログが形になった」

小さな積み重ねのルーチンは、その瞬間は退屈でも、未来から見れば「生存を可能にした足跡」なのだ。

不意のトラブル

Subsistenceをやっていると、必ず訪れるのが「予測不能な出来事」だ。 順調に資源を集めていた矢先に熊に遭遇する。 ハンターに拠点を襲撃され、貴重な資材を奪われる。 吹雪で体温が下がり、焚き火の燃料が尽きて死にかける。

そうした出来事は、事前にどれだけ準備していても完全には防げない。 「計画通りにいかない」のがサバイバルの本質だ。

開発やブログでのトラブル

開発やブログの世界でも、同じように“想定外”が襲ってくる。

  • バグ:昨日まで動いていたコードが、突然エラーを吐く。
  • 仕様変更:外部APIの仕様が変わり、記事の内容が古くなる。
  • 事故:サーバーが落ちる、ビルドが通らない。
  • 精神面:集中が途切れる、やる気が急にゼロになる。

どれも熊やハンターに匹敵するような「生活を揺るがす脅威」だ。 積み上げてきたものを、一瞬で崩してしまうことさえある。

対処の選択肢

Subsistenceでは、熊に出会った時の選択肢はシンプルだ。 「逃げるか、戦うか」。 どちらを選ぶにしても、瞬時の判断が生死を分ける。

開発やブログも同じだ。

  • 逃げる:今日は記事を書かない、コードから一度離れて散歩する。
  • 戦う:ログを読み込み、原因を突き止め、エラーと格闘する。

大事なのは「どちらを選んでもいい」ということだ。 逃げても、また戻ってこればいい。 戦って負けても、学びが残る。

トラブルがもたらすもの

不意のトラブルは厄介だ。 でも、だからこそ印象に残り、物語になる。

  • 「あの時、熊に殺されて資源を全部失った」
  • 「あの時、記事を誤って消して一晩中書き直した」

どちらも、その瞬間は絶望だったけれど、後から振り返れば忘れられない経験になる。

結局、トラブルは避けられない。 大事なのは、遭遇した時に「次の一手」を選ぶ自分の姿勢だ。 それこそが、サバイバルも開発も続けていく力の源になる。

孤独を受け入れる

Subsistenceの世界は、徹底して孤独だ。 森に入っても仲間はいない。 焚き火の明かりは自分だけのもの。 聞こえるのは風の音と獣の唸り声だけだ。

そこには「共感してくれる誰か」も「助けてくれる誰か」も存在しない。 全ての判断を下すのは自分であり、その責任も自分が背負う。 孤独を受け入れることが、このゲームの前提条件なのだ。

開発やブログの孤独

コードを書くとき、記事をまとめるとき──基本的に私はひとりだ。 誰かが隣で応援してくれるわけじゃないし、ミスをすぐに直してくれる相棒もいない。 エディタに向かって、キーボードを叩き続ける音だけが響く。

もちろん、完成したものを公開すれば、反応が返ってくることはある。 でも、それは「後から届く反響」であって、その瞬間の孤独を埋めてはくれない。 作業そのものは、常に孤独な営みだ。

孤独がもたらす力

皮肉なことに、この孤独こそが強さになる。

  • 孤独だからこそ、自分の感覚を信じて判断できる。
  • 孤独だからこそ、誰にも邪魔されず没頭できる。
  • 孤独だからこそ、積み重ねた成果がすべて「自分の物語」として残る。

サバイバルも開発も、孤独を前提にすることで初めて継続できる。 孤独を恐れて逃げてしまえば、どちらも続かない。

孤独の中の小さな灯

ただ、その孤独は完全な虚無ではない。 Subsistenceで焚き火の炎が温もりを与えてくれるように、開発やブログでも小さな光がある。

  • 成功したビルドの「緑のチェックマーク」
  • 公開した記事に付いた一つのコメント
  • 「動いた!」という瞬間の歓喜

それは誰かと共有しなくても、自分を支える灯になる。 孤独を抱えながら、その小さな灯を見つけ続けること。 それが生き延びる力になる。

物語を紡ぐ

Subsistenceを遊んでいると、一つひとつの出来事が小さな物語になる。 初めて熊に襲われて全ロストした夜。 やっと建てた拠点をハンターに焼かれた朝。 種から育てた作物が初めて実を結んだ日。

それは大きなドラマではない。 でも、当人にとっては忘れられない「生きた証」になる。 サバイバルは、そうした積み重ねを通じて、自分だけの物語を紡いでいくゲームだ。

開発やブログが生み出す物語

開発やブログも同じだ。 バグに泣かされた夜。 記事が初めて検索でヒットした日。 誰かから「役に立った」と一言だけ届いた瞬間。

それらは大きな成功ではない。 けれど、その時の感情が物語を形づくる。 自分だけが知っている、孤独で泥臭いストーリーがそこに積もっていく。

誰のためでもなく、自分のために

サバイバルゲームで起きた出来事は、他人にとっては取るに足らないものかもしれない。 でも自分にとっては大切な記憶になる。

同じように、ブログや開発での「小さな成功」や「地味な失敗」も、外から見れば些細なことだろう。 けれど、私にとっては生き延びた証であり、物語を続けるための燃料なのだ。

物語が続いていく

結局、Subsistenceも開発も「物語を紡ぐ営み」だと思う。 終わりのないループの中で、少しずつ形を変え、積み重なり、やがて一冊の本のようになっていく。

そして、その物語は誰かに見せるためにあるのではなく、まず自分が生き延びるために存在している。 そう考えると、今日の一行のコードも、今日の一段落の記事も、 荒野の中で拾った小枝のように、大切な物語の一部になるのだ。

おわりに

Subsistenceを通じて気づいたことがある。 サバイバルゲームの中で生き延びる営みと、ブログや開発を続ける営みは、実は同じ構造を持っているということだ。

資源を拾い、拠点を築き、日々のルーチンを繰り返し、不意のトラブルに対応し、孤独を受け入れながら、それでも小さな物語を紡いでいく。 そのどれもが「生き延びる」ことに直結している。

ゲームの中で焚き火を守るように、私は記事を書き、コードを書き続ける。 それは誰かに認められるためではなく、まずは自分が生き延びるための営みだ。 そして、積み重ねの中で生まれた小さな物語は、いつか他の誰かの灯火になるかもしれない。

サバイバルも、創作も、結局は同じ。 孤独の荒野で資源を拾い、火を絶やさず、物語を繋いでいくこと。 その繰り返しの中にこそ、生きる意味があるのだ。