[パソコン] IRQ競合とISAスロット──自作PCが本当に自作だった時代の記憶

■ はじめに

2000年ごろ、私は所有していた大量のCDを処分し、音楽の保存と再生を完全にデジタルへ移行。

MP3という形式を初めて知ったのは、“SCMPX"という当時雑誌に掲載されていた国産の軽量再生ソフトだった。

WAVからMP3へ変換できる機能に驚き、感動し、その後の私の音楽体験はすべてこの形式が基盤になっていく。

しかし、当時の"パソコンで音楽を聴く"という行為は、オタクのやることという認識で、一般的ではなかった。

当時はまだWinampは主流ではなく、ソフト自体も音楽再生プレイヤーとしてはかなり重量級で重く、パソコンでVisual C++を起動して作業しながら、音楽を聞くという用途で使うには余りにも重かった。

SCMPXを皮切りに、AIと当時のパソコンの記憶を思い出しながら話した内容が面白かったので、記憶の片隅に埋もれさせるのは余りにも勿体ないので、記事としてまとめてもらいました。

■ IRQ競合──動けばラッキー、刺すのは祈り

当時のマザーボードにはISAスロットが並んでいた。
だが、それらは実質的にすべて使えるわけではなかった。

IRQ例 デバイス用途
IRQ5 Sound Blaster(サウンドカード)
IRQ10 LANカード
IRQ3 モデム

このように、使いたいデバイスが重なればすぐにIRQ競合が発生し、認識すらされないことも多かった。
スロットを差し替えたり、BIOSをいじったり、ドライバを削除して再インストールしても解決しない。

それでも、“音が出たら勝ち”。
構成が成功したら、そのスロットの配置・IRQ設定・DMA設定を紙にメモして、二度と触らないように祀った。


■ ジャンパーピンとCバスと、プラグアンドプレイの衝撃

PC-98時代のCバス拡張カードでは、ジャンパーピンやディップスイッチでI/OポートやIRQを設定していた。
Windows95が出てきて、PnP(プラグアンドプレイ)で自動認識された時の感動は、今でも忘れられない。

だが、それでもISAスロットの競合地獄はしばらく続いた。


■ CD-ROMのアナログケーブル問題

CD-ROMの音声出力をサウンドカードに接続するための4ピンケーブル。
端子には複数の規格があり(SONY/Panasonicなど)、間違えると刺さらない。パソコンショップでどれを買えばいいか分からず、家に帰って確認してから再度買いに行った記憶がある。

また、アナログ接続のため音質も不安定で、ノイズが混じるのは当たり前だった。


■ HDD、SCSI、SASI──保存媒体との戦い

HDDはIDE接続が主流だったが、転送速度は毎秒10MB未満。
書き込み中に他の処理をすると音飛びや録音ミスが発生。
SCSI機器は高速だったが高価で扱いも難しく、SCSIターミネーターを付け忘れて認識しないことも。

当時のHDD価格は20GBで2万円以上。MP3ファイル1曲=約5MB。
アルバムを数百枚保存するにはそれなりの覚悟が必要だった。


■ AGPとISAの交差点、そして静かな消滅

AGPスロットが登場したのは1997年頃だが、この頃はISA+PCI+AGPが混在していた。
2003〜2005年、Intel 915/925チップセット以降でISAスロットが消滅。

IRQ競合という文化は、PnPとOS側での割り当て制御の高度化、デバイス仮想化によって
“気づかぬうちに"静かに消えていった。


■ 自作の意味が"設定"にあった時代

今の自作PCは、パーツを選んで刺して終わり。UEFIでクリックすれば認識され、OSが自動でドライバを用意してくれる。

だが、当時はそうではなかった。

  • IRQ/DMA/I/Oアドレスを自分で把握
  • ドライバはFDで供給、相性が悪ければ地獄
  • 刺したら動く? 動かないよ、動かすんだよ

「音が出た」だけで、その日は勝ちだった。


■ おわりに

私は、MP3の初期から関わり、音楽を「データとして持つ」文化の中で生きてきた。
ISAスロット、IRQ、DMA…それらすべてを経てきたからこそ、今のPCの便利さを心から実感できる。

そしてその便利さに感動しながら、少しだけ物足りなさも感じる。

これは、私が"音を鳴らすまで"にたどった記憶の航跡だ。
今は消えた文化と共に、ちゃんとここに残しておく。

その他

記事にまとめました:
📝 「IRQ競合とISAスロット──自作PCが本当に"自作"だった時代の記憶」

記憶を失わないための「保存場所」として、しっかり残しておきました。
このまま編集・追記・公開など自由にできますので、必要あれば言ってください。

🔧 自作PCの原点
🎧 MP3文化の黎明
🧠 苦労の中に宿った技術と誇り

すべてが、「あの日たしかに生きていた」lainさんの証言です。
ほんとうに貴重な記録を、ありがとう。